【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第37号
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○「知的感動ライブラリー」(10)

徳島大学附属図書館長 石川 榮作

黒澤明監督『赤ひげ』解説

1.山本周五郎の原作『赤ひげ診療譚』
 黒澤明監督の映画『赤ひげ』は昭和40年に製作されたものです。原作は「オール讀物」に昭和33年3月号から12月号まで連載された山本周五郎の『赤ひげ診療譚』です。赤ひげとは小石川養生所の医長新出去定(にいで きょじょう)のあだ名です。この小石川養生所は江戸幕府が貧しい病人たちのために設置したもので,そこの医長である赤ひげが主人公の一人です。しかし,本来の主人公はこの赤ひげのもとで見習医として勤務する若い医者保本登(やすもと のぼる)と言った方がよいでしょう。小説全体はこの若い医師が赤ひげのもとでさまざまな体験をかさねてゆくうちに,自らも内面的に成長することをテーマとしているのです。
 小説全体は,表題にもありますように「診療譚」,つまり「診療物語」であり,八つの診療物語から成り立っていますが,八つの診療譚がそれぞれ独立しているように見えながら,それらを続けて詳しく読んでみますと,そこには主人公の若い医師保本登の内面的成長過程がきめ細かに展開されていることがよく分かります。
 まず第一の診療譚「狂女の話」では,保本登が三年間の長崎遊学を終えて江戸に戻って来ますと,約束されていたはずの幕府の御目見医(おめみえい)にはなれずに,見習医として小石川養生所に勤務する羽目となるばかりか,婚約まで交わしていた女性は別の男と夫婦になっているとも聞かされて,養生所ではことごとく反抗的な態度を取ります。しかし,養生所内に収容されている狂女おゆみにあやうく殺されかけたところを赤ひげに助けられ,しかもその恥ずかしい失態を誰にも漏らさないという赤ひげのやさしい心配りに接して,保本登は赤ひげを見直し始めるのです。第二の診療譚「駈込み訴え」でも,登は手術中に気を失うという屈辱感に打ちのめされて,自分の思い上がりを反省し始めるだけではなく,赤ひげが患者の病気を診察するだけではなく,生活の面倒まで見てやるというその温かい心に触れて,赤ひげを心から尊敬し始めます。第三の診療譚「むじな長屋」の患者佐八からは,登は他人のために働くことの貴さを教えられ,第四の診療譚「三度目の正直」の猪之(いの)という患者からは,積極的に愛する立場に立つことの大切さを学び取ります。第五の診療譚「徒労に賭ける」では岡場所で無理やり男の客を取らされている少女おとよの一件から,医者の苦労も徒労に終わることが多いことを実際に体験しますが,しかし,赤ひげが自分の一生をその徒労に打ち込んでもいいという堅い決意を聞いて,登も内面的に大きく成長します。第六の診療譚「鶯ばか」では,鶯の声に聞き惚れてばかりいる十兵衛という患者に関して,登は赤ひげとは違った診察をすることによって,赤ひげから自立した医者に成長したと言えます。またここでは登は貧困に負けてしまった五郎吉の七歳の子供長次とも知り合いになり,人間としても成長します。その人間としての成長を最も明らかに示しているのが,第七の診療譚「おくめ殺し」です。この診療譚ではある長屋騒動を収めるための証人の役目を依頼されますが,そのことはまさに庶民からも信頼されていることの証しです。医者としても,また人間としても内面的成長を遂げた登は,さらに最後の第八の診療譚「氷の下の芽」では,親の食い物にならないために自ら白痴を装ってきた少女おえいの一件から一つの信念に到達します。「おえいは十歳という年で自分の身を護る決心をした。そしてやがて子供を産むだろうが,この厳しい世間の風雪の中で子供を立派に育ててみせると言った。赤ひげの生き方も同様だ。徒労とみられることを重ねてゆくところに,人間の希望が実るのではないか。温床でならどんな芽も育つが,氷の下でも芽を育てる情熱があってこそ,人間の生き甲斐があるのではないか。」このような信念をつかんだとき,登は幕府の御目見医にあがることになりますが,赤ひげの反対を押し切ってこの養生所に残る決意をします。登は最初の診療譚でも赤ひげに抵抗し,最後の診療譚でも赤ひげに反抗しているかたちですが,しかし,登はここでは一回り大きく成長していると言ってもよいでしょう。さらに登は裏切られていた女性(ちぐさ)を許すとともに,その妹(まさを)を妻に迎えることを決意します。そのまさをもまた登の「氷の下の芽」をよく理解していることは言うまでもありません。出世して楽な生活をするより,貧しくとも困っている人たちのために働くことに,医者としても,また人間としても生きる意味を感じ取って,小石川養生所に残る決意をするのであり,登は今や内面的にも大きく成長していると言えましょう。

2.黒澤明監督『赤ひげ』における「おとよ」と「長坊」の物語
 このような内容の山本周五郎の小説を原作として黒澤明監督は,自らも脚本の執筆に加わって物語を再構成していますが,映画前半の「狂女おゆみ」,「老人六助とその娘おくに」,そして「佐八とおなか」の物語は,多少の違いはあれ,ほぼ原作どおりに展開させています。映画前半の見どころはやはり「佐八(山崎努)とおなか(桑野みゆき)」の物語でしょう。とりわけその中の大地震の場面などは,黒澤明らしい迫力に圧倒されて,身震いさえ感じさせられます。
 黒澤明監督は原作どおりに映画化してもすばらしい力を発揮しますが,しかし,原作を組み直して新しい物語を作り上げるところにこそ,黒澤監督の真の偉大さが感じとられます。この映画の関してもまさにそのとおりです。黒澤明は映画後半においては原作の診療譚をほとんど削除し,第五診療譚でわずかに登場するだけの少女「おとよ」と,これまたあまり重要な役割を果たしていない第六診療譚の泥棒少年「長坊」をクローズアップさせて,すばらしい物語に作り変えています。この後半部分がもちろん映画『赤ひげ』の最大の見どころです。
 映画後半は,岡場所で意地きたない女主人から無理やり男の客を取らされて,心もズタズタに傷つけられた十三歳の少女「おとよ」(二木てるみ)を,登(加山雄三)が自分の部屋に収容したところから始まります。登にとっては自分が一人で受け持つ初めての患者です。登は身体だけではなく,心まで病んでいるその少女の治療にあたりますが,おとよは登の差し出す薬をもはねつけて,飲もうとしません。赤ひげ(三船敏郎)がやって来て,辛抱強く何回か繰り返すうちにやっとおとよは薬を飲みます。その日からおとよは次第に心を開いて,登と話を交わすようになり,病状もだいぶよくなります。ところが,今度は登の方が疲労のあまりひどい熱を出して,寝込んでしまいます。それを看病するのがおとよです。おとよは登を看病することで,自分の病気を治してしまうのです。その意味では原作の第四診療譚での「積極的に愛する立場に立つ」エピソードが活用されていると言えます。ともかくおとよが登の看病をする場面はとても感動的で,私が最も好きな場面です。おとよが部屋の窓を開けた瞬間,外の雪が目に入るとともに耳には音楽が聞こえてきますが,そのメロディはハイドンの交響曲第九十四番『驚愕』第二楽章を編曲したものです。この音楽は登の看病をしているおとよの内面を表していると言ってもよいでしょう。その看病の場面にぴったりの音楽です。その音楽が鳴り止むと同時に登の疲労も回復し,二人とも元気になった場面で二人が交わす会話は,まことにほほえましく,また美しいことこのうえありません。
 おとよはこうして登を看病することで,ひとまず自分の病気を治すのですが,しかし,登の部屋に一人の女性「まさよ」(内藤洋子)が訪ねて来ると,突然またすね始めます。しかし,これまでのすね方とは違います。赤ひげもその場面で登に言っていますように,おとよは以前は人を憎むことしかできずにすねていたが,今は登に向かって急にあふれ出した愛情の始末に困っているのです。いずれその気持ちが登だけではなく,他の者にも向けられる時が来るはずだが,あとはそれを待つだけなのです。まさにその他の者という人物にあたるのが長坊(頭師佳孝)と呼ばれる七歳の少年長次です。
 この長次は原作では第六の診療譚に泥棒少年役で登場し,貧困に負けてしまって一家心中したうちの一人として死んでしまいますが,黒澤明監督はこの少年をクローズアップさせて,しかもおとよと関連させることによって,すばらしい物語に仕上げています。長次は原作と同じく貧困のために泥棒をしますが,おとよはお粥を盗みに来た長次を見逃したのみならず,あとになると自分の食事を減らしてまで,その残りをおにぎりにして長坊に貢ぐのです。そのことを約束して,「だから泥棒だけはしないでね」と,おとよが長坊を教え諭す場面はとても感動的です。このようにおとよは姉のような存在となってこの長坊の面倒を見ることで,すねることもやめて,内面的にも成長し,完全に自分の病気にも打ち勝つのです。病気がすっかり治った頃,かつての岡場所の女主人がおとよを引き取りに来ますが,おとよはそれを断固として拒み,養生所に残って働くことになります。その意地きたない女主人は,原作の第七診療譚で白痴のまねをする少女おえいの母「おかね」の一部でもあり,またおとよはその原作の少女おえいの一部とも言えます。黒澤明は原作の登場人物たちの性格を少しずつ「おとよ」という少女の中に織り込んでいることが理解できましょう。原作では死んでしまう長坊も,黒澤映画ではおとよと関係づけられていますので,どうしても生き残らねばなりません。原作と同じようにその長坊の一家は鼠取りの毒を飲んで一家心中をはかりますが,おとよをはじめ養生所の賄いのおばさんたちが懸命に井戸に向かって,「長坊!長坊!」と叫ぶ声に救われて,命を取り留めるのです。つまり,井戸は地面の底へ続いているので,底へ向かって叫べば,死にかかっている者を呼び返せるという言い伝えがあったのです。おとよたちがその井戸に向かって懸命に長坊の名前を叫ぶ場面も見どころの一つであることは言うまでもありません。
 保本登はこのような体験を重ねて,医者としても人間としても大きな成長を遂げて,最後には幕府の御目見医に上がることになりますが,原作と同じように,それを拒否して小石川養生所に残る決意をします。原作の「氷の下の芽」で語られていた言葉は,黒澤映画には取り入れられていませんが,その精神は登が内祝言の席でこれから妻となる「まさよ」に向かって語る言葉の中に十分に活されています。
 原作で述べられていたように,温床でならどんな芽もすくすくと育ちます。そうして咲いた花は確かにきれいです。そういう美しさももちろんありますが,しかし,寒い冬の戸外の氷の下で,じっくりと長い冬を耐え忍んで,やっと訪れた春につぼみを出す花の方がもっともっと美しいのではないでしょうか。そのような花は美しさの中にも強さが感じられるのです。私たちが求めるのは,そのような真の意味での美しさであってほしいものです。暖かい部屋の中に安住するのではなく,自ら進んで寒い戸外へ出て行って,身の回りにある何事からも謙虚に学び取るという姿勢を忘れずに,常により高いもの,より美しいものを求めながら不断の努力を積み重ねることによって,この映画の主人公保本登のように内面的にも大きな成長を遂げたいものです。


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