【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第36号
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○「知的感動ライブラリー」(9)

徳島大学附属図書館長 石川 榮作


日時 2008年1月24日(木) 午後3時30分〜午後5時10分
場所 徳島大学附属図書館本館 3階大視聴覚室
作品 市川崑監督『かあちゃん』(2001年,岸恵子主演)(1時間36分)

市川崑監督『かあちゃん』解説

2008年1月26日(土)に山田洋次監督の映画『母べえ』が劇場公開されるのをきっかけに,今回の「知的感動ライブラリー」は市川崑監督『かあちゃん』(2001年)を取り扱います。両作品は直接的にはまったく何の関係もありませんが,ただ一つある「母」を中心にした映画という点で共通しています。山田洋次監督『母べえ』は吉永小百合主演で,昭和の激動の時代,夫を信じ,娘たちを愛し,慎ましくも気高く生きる母べえの物語だと聞いていますが,市川崑監督『かあちゃん』は江戸の庶民の生活が困窮を極めていた時代に,入牢中の罪人のために更生の資本を稼いでやるという「かあちゃん」の物語です。いずれも映画の名匠による「永遠なる母の物語」と言えましょう。是非この機会に両作品をご鑑賞ください。以下,市川崑監督『かあちゃん』について,その原作の山本周五郎の作品とともに,若干解説をしておきます。

1.山本周五郎の小説『かあちゃん』
 市川崑監督『かあちゃん』の原作は山本周五郎の短編小説『かあちゃん』です。この小説は昭和37年7月「オール讀物」に発表されましたが,現在では新潮文庫の山本周五郎『おごそかな渇き』(平成19年9月20日第60刷)に収録されていて,簡単に入手できます。
 物語の時代背景については,はっきりとした記述はありませんが,内容から判断して江戸時代のある時期,庶民たちの生活が困窮を極めていた時期のことです。庶民がそのように貧しい生活を送っていた頃,お勝という名の「かあちゃん」の家では毎月14日と晦日の晩には稼いだ銭の勘定をしているという噂です。夜10時近く,ある飲み屋で近所の客たちが話しているところによると,お勝は亭主に死なれてから,女手で5人の子供を育ててきたが,今では上は20歳の長男から一番下は6歳か7歳の末っ子まで含めて,一家6人でそれぞれの仕事をして稼いでは,お金を相当溜め込んでいるというのです。彼らからすると,まるで気違いのように稼ぐのはいいが,しかし,貧乏人には貧乏人の付き合いがあるはずなのに,最近はけちになってしまっておもしろくないのです。その話を片隅で一人の男が聞いていましたが,勘定を済ませると出て行きました。
 そのあとはお勝の家でのことです。今日は晦日なので,噂通り,お勝一家は6人で銭の勘定をしています。どうやら一家6人は源さんという人のためにお金を貯めているようで,目標額には少し足りないけれど,予定の来月の17日までにはなんとか目標が達成できる見通しがついたようです。銭の勘定が済むと,一家はうどんを食べてから,床に就きますが,お勝だけはまだ針仕事を続けます。
 お勝は誓願寺の九つ(午前零時)の鐘が鳴り,やがて九つ半になった頃,居眠りを始めます。やがて勝手口の方で物音がして,お勝は目を覚まします。そのうち一人の男が抜き足で入って来ます。飲み屋で話を聞いていた男です。男は震えていて,足もがくがくさせているうえ,歯と歯の触れ合う音まで聞こえますので,お勝は「大きな倅が3人いるので,静かにしておくれ。眼を覚ますといけないからね」と言います。このあとお勝と泥棒との間で交わされる会話がとにかく滑稽でおもしろい。男が「金を出せ」と言っても,お勝は「ああ,いいよ」と答えて,そのお金を貯めた訳を話して聞かせます。それによると,大工をしている長男の友達で源さんという人がいて,3年前のこと,彼は金に困って仕事場の帳場から2両を盗んだが,すぐ露顕して牢に入れられた。それを聞いたお勝は,刑期を終えて牢から出て来ても,源さんは元の大工の職に戻れないだろうから,「おでん」の店屋を開くのがいいと思って,子供たち5人と話し合ってその元手を稼いでやったのです。「これがそのお金だよ」とお勝は言って,男にそれを差し出すと,男はそれを取ることもせずに帰って行こうとします。するとお勝は,帰る先のあてもない男を引き止めて,遠い親類の者ということにして自分の家においておくのです。それどころかお勝の子供たちも,翌朝からその勇吉という名前の男のために仕事を探してやって,勇さんは大工の長男の職場で職を見つけてもらって働き始めたのです。
 そうしているうちに源さんが2年半の刑期を終えて,牢から出て来る日がきて,その日はお勝一家は皆仕事を休みます。粗末な献立ながら、皆で用意して,源さんとその妻子を出迎えます。お勝が皆で稼いだお金を源さんに渡すと,源さんは畳に手をついて,妻子ともに頭を下げます。そばにいた勇さんは,折れるほどうつむいて,心の中で「おめでとう,源さん」と言います。やがて源さんとその妻子が帰って行くと,勇さんはお勝に「この俺までが皆のお荷物になっては済まない」と言い出して,この家から出て行くことを口にします。「できることなら,一生この家においてほしいのだが,それじゃあまりにも申し訳ない」と繰り返す勇さんに向かって,お勝は「あたしゃくどいのは嫌いだよ」と言ってから,「血肉を分けていなくても,縁があって一緒に暮らせば,親子兄弟の情がうつるのは当たり前だよ,勇さんが済まないからって出て行って,あたしたちが平気でいられると思うのかい」と続けます。この言葉に勇さんはその家に居続ける決意をします。今までお勝のことを「おばさん」と呼んでいた勇さんは,翌朝,仕事に出かけるとき,「かあちゃん」と口にします。それはほとんど声にはなりませんでしたが,お勝はまさしくそれを聞きとめて,「いってらっしゃい」と言います。心温まるような締め括りです。
 この小説のおもしろさは,かあちゃんとその他の登場人物との会話にあり,とりわけかあちゃんと泥棒の会話の中にはユーモアさえ読み取ることができるとともに,それらの会話の中から「かあちゃん」の温もりが伝わってきます。これが山本周五郎のユーモアとヒューマニズムの世界と言ってよいでしょう。

2.市川崑監督の映画『かあちゃん』
 市川崑監督の映画『かあちゃん』(脚本は和田夏十・竹山洋)は,ほぼこの山本周五郎の原作に基づいていますが,もちろん新たな人物やエピソードを付け加えて,全体が均整のとれた映画に仕上げています。
 まず冒頭で「ごめんください。お留守ですね。それじゃ入らせていただきます」と言いながら,一人の泥棒(原田龍二)がひどい貧乏暮らしの家に押し入る場面は,原作にはありませんが,原作の持っているユーモアは十二分に踏襲されていて,とにかくおもしろい部分です。その間,字幕によって,時代は天保末期,老中水野忠邦による改革の効なく,浮浪者は増加し,江戸の庶民の暮らしは貧窮の極みにあることが説明されます。今,泥棒が押し入ったその家も,ひどくきたない家で,捕るものと言っても何もありません。そこへその住人,大工の熊さんが戻って来て,泥棒はあわてて床の下に隠れます。熊さんは足跡で泥棒が入ったことに気づき,それを理由に大家に家賃を猶予してもらおうと考えます。ちょうどそのとき大家が来て,盗まれたものを品書きしてお上(かみ)に届け出れば,品物が戻ってくることを教えます。そこで熊さんは,もともと持ってもいない品物を捕られたようにして届け出ることにしました。床の下では泥棒が,「どっちが泥棒やら分からない。ひでえ世の中だ」とつぶやきます。
 そのあとの展開は原作とほぼ同じで,飲み屋で近所の客たちがお勝(岸恵子)一家の話をしているのを,一人の男が聞いてから出て行きます。お勝の家では家族6人で銭勘定を済ませたあと,うどんを食べてから,お勝以外は床に就きます。お勝が深夜まで針仕事をしているところにその男が泥棒に入り,その家に勇さんとして滞在することになるのも,細かな違いはあれ,ほぼ原作と同じと言ってよいでしょう。ただ映画ではテンポよく,源さんはすぐ翌日に牢から出て来ることになっています。お勝はその前に子供たちに向かって,自分たちが源さんのためにお金を貯めたことを決して他人にもらさないことを約束させますが,その理由がまた温かく,「それを知ったら感心する人もあるかもしれないけど,それでは源さんが肩身の狭い思いをするからね」というものです。原作にはないこのお勝の言葉には「無償の奉仕」の精神とともに「他人への温かい思いやり」が感ぜられて,感動的な場面です。やはりこのあたりがこの映画の見どころの一つで,特に皆で稼いだお金を源さんに渡す場面は,皆の温かい気持ちが観客にもよく伝わってきます。勇さんもそれを見て,胸を締め付けられる気持ちになることは言うまでもありません。
 そのようなときに大家が訪ねて来て,お上がうるさいので,勇さんの身元を保証する書き付けがほしいと言います。勇さんはもはやここにはいられないと思って,裏口から逃げ出しますが,あとを追いかけてきたおさん(勝野雅奈恵)と勇さんの会話もまた見どころの一つです。勇さんは,実は自分は親戚でもなく,一昨日の晩,泥棒に入った男であることを打ち明けますが,おさんは信じようとしません。その理由がまたおもしろく,「昨日初めて会った勇さんの言うことと,生まれたときから一緒のかあちゃんの言うことのうち、どっちを信じるかと言われたら、やっぱりかあちゃんの言うことを信じるわ」というものです。映画を見ている観客には,このおさんの言葉は馬鹿げていますが,しかし,「私は馬鹿かもしれないけれど,勇さんがおかあちゃんのことを本当のお母さんだと思って,一生私たちと一緒にいたいのなら,ここにいればいいじゃないの」と説得する言葉には,無理をしないで素直に生きることの大切さを教えてくれます。勇さんは身元の保証のことを気にしますが,おさんの言葉に従ってとりあえず戻ることにしました。
 そこでお勝は夜になると,易者のところへ出かけ,20文を渡して,勇さんの身元を保証する「書き付け」を書いてもらってから戻って来ます。そこへ役人がやって来ます。数日前,石川島の人足寄せ場で刑に服していた囚人が5日間の予定で一時釈放されたが,戻って来ないというので,大家から勇吉の情報を得て調べに来たようです。お勝もこのときはもう駄目かと思いましたが,役人の手下が駆け込んで来て,その囚人は今日戻って来たと言います。疑いは晴れて,お勝もホッとしましたが,子供たちはすでにかあちゃんが易者に書き付けを書いてもらったことを知っていました。このあたりのやりとりにも心温まるものが感ぜられます。原作では勇さんの仕事はすぐ見つかりますが,映画ではこのとき初めて,大工の熊さんが大怪我をしたために,その代わりに大工として働くことになります。
 ところが,働き始めて4日目に,勇さんは自分の弁当だけが特別大きいのに気づいて,やはり自分だけは他人扱いされているのだと言います。それに対してお勝は,「それは客扱いでもなく,他人行儀でもない。勇さんが痩せていて元気がないからって,おさんが心配してやってることなんだよ」と説明します。それを聞くと,勇さんは「生みの親にもこんな親切なことをしてもらわなかった」と言いますが,お勝はいきなり「親を悪く言う人間は大嫌いだ」と勇さんを叱りつけて,続けて言います。「貧乏人だって,親の気持ちに代わりはありゃしない。できることなら,身の皮を剥いでも子に何かしてやりたいのが親の情だよ。それができない親の辛い気持ちを一度でも察してあげたことがあるのかい。」原作にもある言葉ですが,山本周五郎はこれを言いたくて小説『かあちゃん』を書いたとのことです。映画でも重要な言葉であることに変わりはありません。映画ではこの最終場面で,特に原作にはないエピソードを織り込んで締め括っています。子供たちは勇さんに向かって,おかあちゃんには他人に親切にするには訳があることを話すのです。それによると,かあちゃんは耳にほくろのある人には親切にするというのです。牢から出てきた源さんにも耳にほくろがあったし,勇さんもあるし,またかあちゃんの旦那さんにも耳にほくろがあったというのです。それを聞くと,勇さんはもはやお勝が仏様のように怖い存在ではなく,急に身近な存在に思えて,より親しみを感じるようになり,最後には仏壇に手を合わせて拝んでいるお勝に対して「かあちゃん」と心の中で叫んで,元気よく仕事に出かけて行くのです。心温まる締め括りです。是非,この機会に原作とともに映画を鑑賞して,さわやかな感動に浸ってみてください。


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