【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第34号
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○「知的感動ライブラリー」(7)

徳島大学附属図書館長 石川 榮作


日時 2007年11月29日(木) 午後2時30分〜午後5時30分
場所 徳島大学附属図書館本館 3階大視聴覚室
作品 映画『八甲田山』(昭和52年,橋本プロダクション/シナノ企画/東宝映画)

東宝映画『八甲田山』(昭和52年)の思い出と解説

1.映画『八甲田山』の思い出

 映画『八甲田山』は,橋本プロダクションがシナノ企画,東宝映画と製作提携して,昭和52年6月に劇場公開された。冬は八甲田山中で,春,夏,秋は日本の四季を追って,3年かがりで撮影を終えたという,文字通りの超大作である。原作は新田次郎の『八甲田山死の彷徨』(昭和46年,新潮社版)である。
 私がこの映画を観たのは,大学院博士課程2年在学中の昭和52年9月5日のことで,そのときの感動は今でもはっきりと覚えている。否,それどころか,生涯忘れることのできない映画になったと言ってもよいだろう。その日,私は徳島大学教養部ドイツ語担当教員の応募書類を福岡中央郵便局から書留で送付したのち,『八甲田山』を観るために映画館に入った。映画が始まるや否や,映画の内容についての感動とは別の意味で私は感動してしまった。高倉健の扮する雪中行軍の指揮官はなんと徳島大尉という名前ではないか!この瞬間,私は今後徳島大学に縁があるかもしれないと思った。映画の内容も見応えがあり,冬の八甲田山には身震いを感ぜずにはいられなかったが,その吹雪の合間にスクリーンに映し出される八甲田山の春,夏,秋の美しい光景にも大いに感動したものであった。数か月後,期待していたように,徳島大学から連絡があって,翌年4月1日付けで徳島大学に着任することになった。この映画との縁は,徳島大学採用時だけではなく,30年経った今でも続いている。板東俘虜収容所を舞台とした映画『バルトの楽園(がくえん)』(平成18年6月全国公開)が製作されるにあたって,シナノ企画の野口正敏氏と知り合いになったからである。その映画でチーフ・プロデューサーを務められた野口正敏氏にはさらに本年9月28日(金)には徳島大学附属図書館主催の学術講演会において,人間愛は国境を超える―映画『バルトの楽園』というテーマで講演していただいた。その折り映画『八甲田山』も話題となったので,こうして映画鑑賞会を開くことになったものである。新田次郎の原作の特徴も織り交ぜながら,この映画のストーリーと見どころをまとめておくことにしよう。

2.映画『八甲田山』のストーリーと見どころ

 時代は日露開戦を目前とした明治34年10月のことである。弘前(ひろさき)第31連隊の徳島大尉(高倉健)と青森第5連隊の神田大尉(北大路欣也)は,両連隊が属する第4旅団司令部の席上で,友田旅団長(島田正吾)から「冬の八甲田山を歩いてみたいと思わないか」という声をかけられた。現在,日本陸軍には寒地装備と寒地教育が不足しているので,ロシア軍と戦うために,寒さとはいかなるものか,雪とは何物なのか,その真実の姿を提示してほしいというのである。冬の八甲田山は生きて帰れぬ白い地獄と言われていたので,2人の大尉は責任の重大さに慄然としたが,雪中行軍は双方が弘前・青森から出発して,八甲田山ですれ違うという大筋が決定し,細部は各連隊独自の編成,方法で行うことになった。年末,青森の神田大尉は弘前の徳島大尉を訪ね,二人は互いに勉強し合い,酒を飲みながら友情を深める。この場面にも感動せずにはいられない。二人は「この次,お会いするのは雪の八甲田で―」と,再会を約束して別れた。さっそく各連隊はその準備に取りかかり,独自の日程と編成で雪中行軍に臨んだが,両者はまったく対照的な結果に終わるのである。

 まず弘前31連隊は,明治35年1月20日にわずか27名の編成で弘前を出発した。行軍計画は徳島大尉の意見が全面的に認められて,隊員は雪に慣れた頑健な者たちばかりで,遠く十和田湖畔を迂回して,三本木に至り,そこから増沢を経て,八甲田山系に入り,田代,大峠,小峠,田茂木野(たもぎの)を通って,青森に至り,それから弘前に戻るという,約240キロメートルを11日間かけて歩くというものであった。

 一方,青森5連隊の神田大尉も少数精鋭の小隊編成を主張したが,大隊長山田少佐(三國連太郎)に説き伏せられて,210名の中隊編成となった。しかも山田少佐ほか数名より成る大隊本部がこれに随行するという。そして行程は青森から田茂木野,小峠,大峠を経て,八甲田山の東南に踏み込み,1日目の夜は田代温泉に宿泊し,2日目は増沢に宿泊,3日目は三本木に宿泊して,4日目に汽車に乗って帰営するというものであった。こうして青森5連隊は1月23日に青森を出発し,田茂木野に着くが,そこで神田大尉の用意していた案内人を山田少佐が断ってしまった。中隊の指揮は神田大尉が取ることになっていたはずだが,その指揮権はいつの間にか山田少佐に移っていた。このことが惨劇の始まりであった。最初の宿泊地田代まではあと2キロというところで,低気圧が太平洋側を襲い,地吹雪が行く手を阻んだ。気温は零下22度,風速30メートルである。握り飯は凍ってしまい,磁石は用をなさず,ソリ隊はソリを放棄せざるを得なくなった。一行は白い闇に方角を見失い,辛うじて露営した。翌24日,雪の中を進むが,隊列は乱れ,狂死する者が続出した。それでも神田大尉の一行は最大の難所である鳴沢へと進んで行った。

 その頃,徳島大尉の小隊は荒れ狂う十和田湖畔を経て,宇樽部(うたるべ)で紹介された女案内人さわ(秋吉久美子)を先頭に犬山峠を進んでいた。この場面で女さわがまるで牝鹿のようにスイスイと雪道を駈け登るさまは,見どころの一つであろう。そのとき私は秋吉久美子という女優が並の女優ではないなと思ったのを覚えている。原作の小説でもその場面は生き生きと描かれている。雪中行軍がまるで「嵐と呼吸を合わせているような歩き」で,風のリズムに身体を合わせながら進むところには,重要なメッセージを読み取ることができよう。自然と折り合いをつけながら進むことができるのも,案内人があってこそのことである。徳島大尉の隊員たちは,「さわ女が先頭にいるかぎり,この雪地獄から脱出できると,信じていた」と原作にもある。この女案内人のおかげで羽井内(はいない)に辿り着いたのちも,徳島大尉は常に案内人を立てることに徹した。

 このように耐寒訓練をしながら,常に案内人を立てて八甲田山に向かう徳島大尉の弘前31連隊に対して,神田大尉の青森5連隊は案内人を拒絶したために,たちまち進むべき方角を見失ってしまった。25日には,神田大尉の隊員210名は140名に減り,飢えと寒さと幻覚に悩まされながら,吹雪の中でただ右往左往するばかりであった。力尽きた者は倒れ,眠ったまま凍死した。この日,辛うじて生き延びた者は50名でしかなかった。翌26日,神田隊の30名は昨夜と同じように吹雪の中で立ち尽くしたのち,あてもなく歩き始めるが,地吹雪はとどめの一撃を加えるかのように襲ってきた。神田大尉は薄れゆく意識の底で,ただ無性に徳島大尉に会いたいと思った。

 その頃,徳島大尉は増沢に到着しており,そこで青森5連隊と会うこともなく,27日にいよいよ八甲田山に入った。天と地が咆え狂う凄まじさの中で神田大尉の従卒の遺体を発見した。神田隊の遭難は疑う余地がなかった。徳島大尉は地吹雪が吹き付けてくる中を進んでいるうちに,神田大尉の遺体をも発見した。唇から流れた一筋の血は,気力をふりしぼって舌を噛んで果てたものと思われた。やがて徳島隊は田茂木野に辿り着き,神田隊の救助隊に出迎えられたが,徳島大尉が神田大尉の遺体に出会ったその時刻には,すでに神田大尉の遺体は収容されていたという。神田大尉の遺体安置所に出向くと,そのそばには神田大尉の妻はつ子(栗原小巻)がいた。「八甲田で徳島様に会える。それだけが楽しみだと申しておりましたのに」と呻く神田の妻に向かって,徳島大尉は「いや,自分は間違いなく雪の八甲田で会った!」と,涙を流しながら答えた。このとき高倉健は本物の涙を流したという。その意味でもこの遺体と再会の場面は見どころの一つであろう。結局のところ,弘前31連隊は一人の脱落者もなく帰還したのに対して,青森5連隊の方の生存者は山田少佐以下12名のみであった。山田少佐は隊員に助けられながら生き延びたのであったが,青森の病院で責任をとるかたちで拳銃自殺をした。しかし,全員生還した徳島大尉以下の雪中行軍隊も,2年後の日露戦争中,全員が戦死したという。

 このようなあらすじの映画の中にいくつかの教訓を容易に読み取ることができよう。自然を決して侮ってはならず,自然を敬い,自然と折り合いをつけながら生活することの大切さも教えてくれる。またリーダーシップはいかにあるべきかという点でも,いろいろなことを学び取ることができよう。さらに冬の厳しさがあるがゆえに,それだけに春,夏,秋のすばらしさをこの映画は教えてくれる。原作の小説には描かれていないこの八甲田山の四季も見どころの一つである。またダイナマイトを使って実際に起こしたという雪崩なども,恐怖を抱いて見るべき見どころの一つであろう。さらに小説にはないこの映画の魅力は,なんといっても芥川也寸志のテーマ音楽であろう。なんとなく物悲しくも,美しいこのテーマ音楽が,両隊の雪中行軍のたびごとに鳴り響き,観客をグングンと映画の中に引き込んでしまう。上映時間2時間51分という長さにもかかわらず,それほど時間の長さを感じさせないのもこの音楽のせいではあるまいか。この映画はさまざまな点で映画史に残る超大作であり,見応えのある感動作であると評してもよいであろう。

 映画も見事であれば,新田次郎の原作もまたすばらしい作品である。小説には小説として映画にはないよさがある。映画では両隊の雪中行軍のさまが交互にスクリーンに描き出されながら,ストーリーが展開していくが,小説では特に第一章で徳島大尉の率いる弘前31連隊のさまが書き出されたあと,第二章で初めて神田大尉の青森5連隊の遭難のさまが描かれており,この小説形式によって読者をグングンと物語の中に引き込んでいく効果を生み出している。また小説には映画では表現しにくい神田大尉の劣等感,つまり,秋田県の漁村に生まれた彼は,士族や華族出身者がほとんどの士官学校ではなく,陸軍教導団を出て軍人となったという劣等感を抱いていることにも触れられていて,彼の複雑な内面を読み取ることもできる。さらに小説では八甲田山系を案内した7人の村人たちが,徳島大尉から「八甲田で見たことを一切他人にしゃべってはいけない」と警告され,恐怖を抱きながら自分たちの村に戻るまでのことが詳細に展開されていて,八甲田山遭難という当時の出来事の深刻さを読むこともできる。なお,この警告の場面は劇場公開用の映画ではカットされたが,今回上映の完全版では最後に数分間収録されていて,その意味でも貴重なビデオ作品である。是非,この機会に感動作『八甲田山』をご覧ください。

参考文献

映画『八甲田山』パンフレット 昭和52年5月26日発行
新田次郎『八甲田山死の彷徨』(新潮文庫)新潮社 昭和53年1月30日発行


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