【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第33号
メールマガジン「すだち」第33号本文へ戻る


○「知的感動ライブラリー」(6)

徳島大学附属図書館長 石川 榮作


二つの『天国と地獄』

 2007年の9月8日(土)と9日(日),テレビ朝日・ABC系で黒澤明ドラマスペシャルとして,そのリニューアル版『天国と地獄』と『生きる』が2夜連続で放送された。御覧になられた人も多いことだろう。私はさっそく2作品をDVDとビデオに録画するとともに,以前の黒澤映画を2作品とも鑑賞しなおして,改めてこれらの作品に大きな感動を覚えた。特に私の人生,具体的に言えば,「文学と映像」という私のライフワークに多大な影響を与えた映画『天国と地獄』を取り上げて,オリジナル版とリニューアル版の違いや,見どころなどをここにまとめておきたい。

 私が初めて黒澤映画『天国と地獄』を観たのは,小学6年生のときだった。高知の田舎で育った私は,保育園に通う頃から映画が好きでたまらず,小学生になってもよく映画館に通ったものである。『天国と地獄』はその小学時代に観た映画の中でも,同じ黒澤映画『椿三十郎』とともに大きな感動を覚えた作品である。初めて『天国と地獄』を観たとき,主人公の権藤(三船敏郎)と誘拐犯人(山崎努)が対面する独特な最終場面に強い衝撃を受けたようである。細かいことを忘れたあとも,その最終場面だけはいつまでも記憶に残っていたからである。
 2度目にこの映画に出会ったのは,昭和52年の秋,大学院博士課程2年のときである。大学生,大学院生になっても映画は相変わらず好きだった私は,福岡市の映画館で黒澤映画のリバイバル上映でこの作品を観た。そのとき購入したパンフレットは今も私の手元にあり,時々読み返したりしている。このとき特に印象に残ったのは,やはり特急「こだま」から身代金の入った二個の鞄を投げ落とす場面である。わずか4分足らずのこの場面に大きな感動を覚え,これこそ黒澤映画の醍醐味だと認識したことを覚えている。この感動によって映画がますます好きになったことは言うまでもない。

 その翌年,昭和53年に徳島大学にドイツ語教員として赴任してきたが,そのうちビデオ等も普及して,それ以後はビデオでこの映画を繰り返し鑑賞してきた。平成14年度に放送大学徳島学習センターの授業を担当したときには,受講生の中にその黒澤映画の撮影中に凧揚げをしていて,真夏の設定(工場の煙突から牡丹色の煙が立ち上ぼる感動的なシーン)のため凧揚げを止めさせられたという横浜出身の人もいて,そのあとの授業は『天国と地獄』の話になってしまったこともある。その夜,ビデオでその映画を観たのはもちろんのことである。このように機会あるごとに鑑賞しているが,この映画は何度観ても常に新しい感動に出会う作品である。すばらしい作品というものは,それが映画であれ,音楽・オペラ,あるいは文学作品であれ,常に新しい感動を呼び起こすものなのである。

 今回(2007年9月)のリニューアル版『天国と地獄』(鶴橋康夫監督・脚色)もなかなかの力作である。舞台の設定はまだ新幹線が開通していなかった昭和38年の横浜から,現代の北海道小樽市に変えられている。誘拐犯人が公衆電話を使って脅迫する場面も,もちろんケータイに変えられておれば,身代金の金額も時代に合わせて3千万円から3億円に引き上げられている。舞台はこのようにことごとく現代風にアレンジして描き出しているはいるが,ドラマの中で展開されるあらすじの大筋はほぼオリジナル版に同じである。製靴会社「フロンティア・シューズ」の常務・権藤金吾(佐藤浩市)は自社株を取得して実権を握ろうと画策し,高台に建つ豪邸をも抵当に入れて3億を用意するが,そのような矢先に「息子を誘拐した,3億円を出せ」という脅迫電話が入る。ところが,実際に誘拐されたのは,息子と遊んでいた友人で,権藤の運転手青木(平田満)の息子であった。誘拐犯人(妻夫木聡)はあとでそれに気づくが,「身代金はお前が出すのだ」とケータイ電話を使って権藤を脅迫する。権藤は妻怜子(鈴木京香)の説得をも振り切って,身代金は絶対に出さないぞという強い態度を示していたが,一夜のうちに腹心の部下(小澤征悦)に裏切られたことなどもあって,考え悩み抜いた末に犯人の要求に従うことにして,札幌発特急「北風」(オリジナル版では東海道線特急「こだま」)に乗り込んだ。映画の見どころはやはりこの特急の場面であろう。戸倉刑事(阿部寛)らとともに特急「北風」に乗り込んだ権藤のケータイに犯人から電話(オリジナル版では車内呼び出し電話)が入り,まもなく通りかかる鉄橋のたもとで子供を見せるから,特急が鉄橋を渡り終えたところで身代金の鞄を投げ落とせと指示する。特急の窓は開かないはずとの問いにも,犯人は車掌室の窓は(洗面所の窓は7センチ)開くはずだと答えるなど,したたかな知能犯であることが分かる。それに対して刑事らは特急を急停車させることもできるが,それでは誘拐された子供の命が危ない。映画の前半は警察も権藤も知能犯に翻弄されるといったかたちである。犯人は二人の共犯者を使って,身代金の入った二個の鞄を奪い取って逃走するが,子供は約束どおり権藤のもとに返す。ここまでが映画の前半部分である。

 自らの財産を投げ出して「破産」した権藤のために刑事たちがその犯人を懸命に追いかけるのが後半である。オリジナル版ではこの後半部分になって初めて犯人の姿が,シューベルトの「鱒」五重奏曲第四楽章のメロディが流れる中でスクリーン上に現れるのに対して,リニューアル版ではすでに冒頭部分で,しかも主人公の権藤よりも先に画面に現れている。その点が大きな違いであるが,それぞれに特徴が出ていて,たいへんおもしろい。今回のテレビドラマでは犯人を頻繁に登場させ,「夏は暑くて寝られない,冬は寒くて寝られない」安アパートで生活している犯人は,その部屋から仰ぎ見る高台に豪邸を構える権藤にいつの間にか恨みを抱き,その憎悪が生き甲斐みたいになってきたことが冒頭から明かにされているのである。

 刑事たちは犯人の電話の録音や,運転手の子供から得た情報をもとに連日地道な捜査を続けているうち,ついに共犯者二人の経営するレストラン(オリジナル版では別荘)を見つけ出す。しかし,そのとき二人はすでに死んでいた。二人は麻薬中毒者で,死因は麻薬の純度が高く,そのためのショック死だと診断された。主犯の仕業に違いないが,身代金の一部がそのままそこに残っていたことから,主犯はまだこの共犯者の死を確認していないと推測した捜査本部は,報道関係者に二人の死を発表しないで,逆に奪い取られた紙幣の一部が某方面で使われたことを記事にしてもらった。その新聞記事を読んだ主犯は,あわてて証拠湮滅のために例の二個の鞄を焼き捨てた。するとその火の中から牡丹色の煙が高々と立ち上がった。バッグにはあらかじめ焼き捨てた場合には牡丹色の煙が出るというカプセルを縫い込んでいたからである。この煙が高々と立ち上ぼるのを高台の豪邸から見る場面も,見どころの一つである。この煙によって刑事たちは主犯が近くの病院のインターン竹内銀次郎であることを突き止める。しかし,今彼を捕まえても共犯者殺害の物的証拠もなく,刑が軽過ぎる。この凶悪犯に相当の極刑を与えるためには,犯人を泳がせて犯行を再現させるしかない。そこで戸倉刑事は共犯者の筆跡をまねて,「ヤクヲクレ,ヤクヲクレナケレバ,ナニモカモバラスゾ」という偽手紙を主犯に届けさせた。そこで主犯は動き始め,刑事たちは主犯がどのように麻薬を手に入れるか,彼を尾行し始めるのである。この尾行の場面も見どころの一つであるが,オリジナル版では麻薬を渡す女性は大衆酒場でごく一瞬しか姿を現わさないのに対して,リニューアル版ではかなり長い間の登場となっている。彼女は良家の令嬢で,両親が揃って出かけたあとで麻薬を用意し,それを口に含んでから出かけ,主犯との待ち合わせの酒場で口移しに麻薬を渡すことになっている。この女性が登場する場面で奏でられるのが,ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の有名な前奏曲である。中世の職人親方たちが入場行進して来るときの曲なのに,それがこの場面にたいへんよく合っている。しかし,一体,なぜこの曲なのか?長いこと,不思議に思っていたが,この楽劇の主人公が「靴屋」の親方ハンス・ザックスであることに思い付いて納得した。それにしてもぴったりと合った音楽を探し出したものである。このワーグナーの音楽が流れる場面が今回のドラマの独創的な場面で,もちろん見どころでもあると言えよう。

 オリジナル版では犯人が麻薬を手に入れたあと,その効き目を試すために麻薬常用者のたむろする場所に向かうのであるが,リニューアル版ではその場面はカットされて,いきなり共犯者のレストランで主犯逮捕の場面となる。リニューアル版ではそのあたりがスピーディな展開となっている。そして最終場面は,オリジナル版と同じく,死刑囚に決定した犯人と権藤との面会シーンであり,このドラマのクライマックスである。「天国」と「地獄」という言葉もここで犯人によって口にされる。リニューアル版では権藤が犯人の話を聞いているうちに,最後には目に涙を浮かべているのがとても印象的である。権藤の涙は一体何を意味しているのであろうか。その解答は視聴者の判断に任されていると言ってもよいであろう。

 オリジナル版ではその死刑囚との面会所でエンディングとなるのであるが,リニューアル版ではそのあとエンディング・タイトルの間,権藤夫妻が小さな靴屋を経営しながら,仲睦まじく暮らしているさまがほほえましく描かれている。この権藤夫妻がオリジナル版よりもより個性的に生き生きと描かれているところも大きな見どころであろう。佐藤浩市と鈴木京香が現代風の夫婦を見事に演じきっているところに,このドラマの新しい面白みと感動がある。新旧二つの作品を見比べるのは,とても楽しくおもしろいものである。徳島大学附属図書館にはオリジナル版のビデオが所蔵されているので,この機会に是非とももう一度黒澤映画の傑作『天国と地獄』をご覧ください。

参考文献

黒沢明監督作品『天国と地獄』パンフレット 1977年
佐藤忠男『黒澤明の世界』(朝日文庫) 朝日新聞社1986年
全集黒澤明 第五巻 岩波書店1988年
佐藤忠男『黒澤明解題』 岩波書店1990年
ナルド・リチー(三木宮彦訳)『黒澤明の映画』(教養文庫)社会思想社1991年


メールマガジン「すだち」第33号本文へ戻る

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第33号
〔発行〕国立大学法人 徳島大学附属図書館
 Copyright(C)国立大学法人 徳島大学附属図書館
 本メールマガジンについて、一切の無断転載を禁止します
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━