【す だ ち】徳島大学附属図書館報 第32号
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○「知的感動ライブラリー」(5)

徳島大学附属図書館長 石川 榮作

日時 2007年9月19日(水) 午後2時〜午後4時30分
場所 徳島大学附属図書館本館 3階大視聴覚室
作品 ヴェルディの歌劇『椿姫』(2002年2月ジュゼッペ・ヴェルディ劇場)


デュマ・フィスの原作『椿を持つ女』とヴェルディの歌劇『椿姫』の比較

1.ヴェルディの歌劇『椿姫』の成立過程
 ヴェルディ(1813-1901)の作曲活動を三期に分けるならば,歌劇『椿姫』は第二期に属する作品である。ヴェルディはそれまで壮大な歴史物語や文豪が描いた英雄などを素材にしてきたが,ここで初めて同時代の話を取り上げ,しかも高級娼婦をヒロインに据えて,裏社交界で美女として一世を風靡した薄幸の女性のオペラを作り上げたのであり,その意味では彼にとっては「異色作」でもあり,画期的な作品とも言える。
 その素材となった原作は,アレクサンドル・デュマ・フィスの小説『椿を持つ女』である。この作家は,『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』を書いた文豪アレンサンドル・デュマの息子(フィス)である。このデュマ・フィスは自分が過去に経験した恋をもとにして,1848年,24歳のときに『椿を持つ女』という処女小説を書き上げた。その題名は女主人公が白い椿の花が好きで,劇場へ行くときはいつも椿の花束をもっていたことに由来する。この『椿を持つ女』がベストセラーとなって,デュマ・フィスはパリのヴォードヴィル座の戯曲家の勧めによって,1850年にそれを五幕ものの戯曲に脚色した。この戯曲は1852年,ヴォードヴィル座で初演されるや,たちまち大評判となった。ちょうどその頃,ヴェルディはパリに滞在していたので,その戯曲を見ることができた。のちに二度目の妻となる歌手のジュゼッピーナ・ストレッポーニと一緒だったという。ヴェルディはすっかりそのドラマが気に入り,翌1853年1月に故郷のイタリアに帰ると,ヴェネツィアのフェニーチェ座と契約し,台本が著名な戯曲作家フランチェスコ・マリア・ピアーヴェによって書き上げられて,さっそく作曲に取りかかり,わずか2か月足らずでそれを完成させたという。その際,題名は原作の『椿を持つ女』ではなく,『ラ・トラヴィアータ』(道を踏みはずした女)として,それは同年3月6日にフェニーチェ座で初演され,歌手などの選択が原因で失敗に終わってしまったが,翌1854年5月4日ヴェネツィアのテアトロ・ガッロで再演されたときには,初演とは異なる歌手を起用して大成功を収めた。それ以降,ひんぱんに上演され,日本でも大正7(1918)年に初演され,とりわけ人気の作品であることは周知のとおりである。
 なお,日本ではデュマ・フィス原作の小説が明治36(1903)年に長田秋濤によって翻訳され,『椿姫』のタイトルがつけられて,その題名が小説でもオペラでも定着したが,ときにはオペラ『椿姫』はわが国ではイタリア語のまま『ラ・トラヴィアータ』と呼ばれることもある。

2.デュマ・フィスの原作『椿姫』
 では,そのデュマ・フィスの原作『椿を持つ女』とは,どういう作品なのであろうか。この小説は,書き手である「私」が,アルマン・デュヴァルという名前の若者と知り合い,その若者の恋物語を聞きながら,書き留めていく形式をとっている。書き手の「私」がその若者アルマンと知り合うきっかけとなったのが,アベ・プレボーの小説『マノン・レスコー』である。すなわち,1847年3月16日にパリのアンタン町9番地のある家で,1か月前に亡くなったその女主人マルグリット・ゴーチェの家具類や骨董品などの競売が行われた際に,「私」はその小説を百フランで競り落としたのであったが,その本の中に署名してあった若者アルマン・デュヴァルが,後日「私」を訪ねて来て,その本を自分に譲ってほしいと言い出したのである。事情を聞くところによると,アルマンはその女主人マルグリット・ゴーチェとは恋仲関係にあり,かつてその小説を贈ったこともあったが,ある日突然別れることになり,彼女から臨終の際に真実の愛を書き綴った手紙をもらい,急いで戻って来たものの,彼女はすでに亡き人となっていた。その小説は自分が彼女に贈り,彼女が最も愛読した本だから,是非自分の手元に置いておきたいと言うのである。彼はお金を出して買い取ると言ったが,「私」は無償でそれを彼に譲り渡した。彼がいかに彼女を愛していたかは,その恋人にもう一度会いたいがために,モンマルトルの墓地を掘り返し,彼女の亡骸を自らの目で確かめてから,墓地を移転させたことからも容易に窺えよう。書き手の「私」は後日,この若者から二人の恋物語を聞きながら,それを詳しく書き留めていくのである。そこに至るまでの経過が,長々と書かれていて退屈な印象を与えるかもしれないが,女主人公マルグリット・ゴーチェの手紙が直接引用される最終場面になると,やはり感動を呼び起こす小説であると言うことができよう。

3.デュマ・フィス『椿を持つ女』とヴェルディ『椿姫』の相違点
 若者アルマンが「私」に語る二人の恋人たちの悲恋物語は,大筋においてはヴェルディの歌劇『椿姫』から知られるものとほぼ同じであるが,もちろん細かな点では相違点も見出される。
 特に目立った相違点は,原作では若者アルマン(オペラのアルフレード)が恋人マルグリット(オペラのヴィオレッタ)の臨終に間に合わず,訃報の手紙を受けてのち,彼女になんとしてももう一度会わねばならないという強い願いから,彼女の墓地を掘り返して,その遺体を埋葬しなおすことであろう。そのためにアルマンが書き手の「私」の前に現れたときには,憔悴しきった人物として描かれており,彼が語り始めるためには,かなりの時間がかかっている。アルマンの悲しみが長々と展開されている点に原作の第一の特徴がある。
 第二の相違点は,アルマンの愛がたいへん深いために,裏切られたと思って恋人マルグリットに対して行う仕返しが,原作ではそれだけいっそう手厳しいものとして描かれている。オペラにおいてはアルフレードの仕返しは第二幕第二場で賭のカードで稼いだお金をヴィオレッタに投げつけて,彼女を侮辱するだけであるが,原作ではたとえば最後にはマルグリットの友人オランプにアルマンは近づいて,彼女を強引に自分のものとし,彼女を唆してマルグリットの悪口を言わせたり,また自分でもあることないことを言いふらしたりして,マルグリットに仕返しをしている。そこでマルグリットは友人に会うことも,舞踏会や芝居に行くこともしなくなり,最後にはアルマンの仕打ちに耐えていく力もなくなり,直接彼にこれ以上ひどい仕打ちを続けないようにと嘆願するほどである。アルマンの仕打ちがひどいものだけに,本人からの手紙によって真実を知ったときの彼の悲しみもそれだけ深いものとなっている。
 原作ではこのように若者アルマンによって語られ,「私」がその物語を書き留める形式をとっているので,アルマンの父がそれほど重要な役割を果たしていないという点が,第三の相違点である。オペラでは第二幕第一場でアルフレードの父ジョルジョ・ジェルモンがヴィオレッタに家庭の事情をしみじみと打ち明け,それによってヴィオレッタが犠牲を引き受ける場面が一つのクライマックスとなっていることを考えると,著しい違いがあることが分かる。
 オペラでは女主人公ヴィオレッタを恋い慕う青年アルフレードは,迎えに来た父ジョルジョ・ジェルモンの歌うアリアなどから,南プロヴァンスの出身であるということ以外には何も明らかにされていないが,原作ではアルマンのことが詳しく述べられている。それが第四の相違点である。原作の第16章で述べられているところによると,アルマンの父は昔から現在に至るまでG−の税務長官を勤めていて,年収もかなりあり,アルマンの妹の嫁入り支度のためにもせっせと貯蓄しているという。しかし,アルマンの母はすでに亡くなっており,アルマンは母の残してくれた財産で,21歳のときにパリに出て,法律を勉強し,弁護士の資格を取ったものの,多くの青年たちのように免状はポケットに入れて,気の向くままパリでのらくらした生活を送るようになったという。ただし,彼の金使いはごくつましいもので,夏の4か月には父のもとに帰省したりしていたこともあり,借金といっては一文もなかったとのことである。マルグリットと知り合った当時は,アルマンはこのような生活をしていたことが詳述されている。

4.マルグリット・ゴーチェのモデル,実在のマリー・デュプレシ
 原作とオペラの間には,このようにいくつかの相違点も認められるが,いずれにしても原作のマルグリット・ゴーチェとオペラのヴィオレッタのモデルとなったのは,実在の人物だったと言われている。その彼女の名前はアルフォンシーヌ・プレシ,のちにマリー・デュプレシとも呼ばれ,1845年頃のパリ社交界に浮名を流した高級娼婦で,若いデュマもまたその情人の一人であったという。デュマは自分自身の恋の経験を素材としてこの物語を構想し,その恋人の原形を理想化してマルグリット・ゴーチェを造りあげたのである。
 その実在のマリー・デュプレシは、デュマ・フィスと同年の1824年に,低ノルマンディ地方オルヌ河近くのノナンという村に生まれた。当時の名前はアルフォンシーヌで,彼女は極貧のうちに少女時代を過ごし,奉公に出てさまざまな放浪生活を経てからパリに現れた。16歳の頃にはプッチッニーのオペラ『ラ・ボエーム』のミミのように屋根裏部屋に住み,お針子で暮らしを立てていたが,やがて公爵の息子の恋人となり,そのおかげで教養や優雅な身のこなしを身につけて,すっかり変身を遂げた。そのとき名前もマリーと変えて,パリの社交界の花形になっていった。背も高くてたいへん美しかった彼女は,次々とパトロンを変えて,社交界の女王へとのしあがっていった。パリの高級住宅街の彼女の家では毎日のように夜会が開かれて,文学者や芸術家たちが集まった。この時期にデュマ・フィスとマリーは出会って,二人は恋に陥るが,1年もしないうちに別れた。この頃,彼女の胸の病気はかなり重くなっていたという。22歳のときに結婚して伯爵夫人となるが,すぐに別れ,23歳になったばかりの1847年2月3日,カーニヴァルの日にひっそりと息を引き取ったという。彼女の墓は,現在でもパリのモンマルトル墓地の中にある。
 ちなみに,この実在のマリー・デュプレシは,有名なピアニストであるリストと一時期恋仲関係にあったとも言われ,そのエピソードはミシュリーヌ・ブーデ著『よみがえる椿姫』(中山眞彦訳)に詳述されている。

5.プラシド・ドミンゴ指揮の歌劇『椿姫』
 このような実在の女性をモデルにしているだけに,ヴェルディのオペラは一段と感動深い作品であるが,演出によってはヴィオレッタを悪女として取り扱うオペラもある。それもそれでよいと思うが,しかし,ヴィオレッタはやはり恋人への真実の愛のあかしとして自ら潔く身を引いて,聖女のような薄幸な女性として描かれている方が最もふさわしいように思われる。一時裏社交界に身を置いていたヴィオレッタの中にも,美しい真実の愛,相手のことを思って自ら身を引く「犠牲的な」愛があることに我々は感動しないではいられないのである。そのようなヴィオレッタに出会えるのが,今回鑑賞するプラシド・ドミンゴ指揮の『椿姫』である。美しくも悲しい音楽と歌手たちの演技を心ゆくまで楽しんでください。

参考文献

音楽友之社編スタンダード・オペラ鑑賞ブック(2) 『イタリア・オペラ(下)ヴェルディ』2000年第3刷
名作オペラブックス2 ヴェルディ『椿姫』音楽友之社1987年
デュマ・フィス作(吉村正一郎訳)『椿姫』岩波文庫1987年第59刷
ミシュリーヌ・フーデ著(中山眞彦訳)『よみがえる椿姫』白水社1995年
杉本長史著『ヴェルディ 椿姫』(解説書)2007年


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